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短期集中連載

マウンテンバイク競技の発展

同好の士がかってに集まり、ヨーイドンで大雑把にやっていた草レースが組織だって行われるようになるのは80年代初頭、NORBA(National Off-road Bicycle Association)が設立されて黄金時代を迎える。

クロスカントリー、ヒルクライムというなじみにある種目に加え、最もマウンテンバイクらしい種目ダウンヒルやスキー競技から導入したデュアルスラロームといった時代を先取りした華やかな映像をもたらす種目を輩出し、瞬く間に人気を博し、当時のスポーツTVチャンネルでも盛んに取り上げられるようになる。
中でもカリフォルニアとネバダの州境にあるマンモス・マウンテンというスキーリゾートでの大会は特に人気と注目を集めた。標高が富士山より高い3800mの頂上から一気に駆け下りるダウンヒルは最高時速100kmにもなり“カミカゼ”と呼ばれマウンテンバイク愛好者のメッカとなっていた。冬のスキー、夏のマウンテンバイクという現在のスキーリゾートの元祖というべき利用形態はここから始まった。

NORBAは全米の有名スキーリゾートでの大会開催を盛んに進め、スポーツ・ビジネスを成功させているが、このマンモス・マウンテンでの大会は全米選手権からさらに世界選手権へと発展し、参加数も数千人を超える文字通りマンモスな大会に成長しマウンテンバイクの記念碑的な大会として今なお歴史に名を連ねている。
87年からは日本選手を引率し本場の香りを体感させた結果、正式種目ではないが、トライアル部門では88年銅メダル、89年は金メダルを獲得する好成績を収めている。この89年はマンモスでUCIのメンバーから翌90年からマウンテンバイクはUCIの下で正式種目となりコントロールされると聞かされ感動と共にいよいよ世界はマウンテンバイクを認めるところまで来たという実感を得たものだ。
90年9月UCIの第1回マウンテンバイク選手権はアメリカ・コロラド州デュランゴのパーガトリー・スキーリゾートで開催、世界17ヶ国が参加した。日本から引き連れたのはクルスカントリーの大竹雅一、原宣功、ダウンヒルに柳原康弘、檀拓磨の4名。初代チャンピオンはダウンヒル、クロスカントリー共アメリカ選手が独占した。以後しばらくの間、世界選手権は一年ごとにアメリカ大陸とヨーロッパで交代開催された。UCIの下での創成期はアメリカの独壇場であったが、その後イタリア、カナダ、フランスと世界選手権が開催されるにつれ、4、5年を経て自転車競技先進国のヨーロッパ諸国の強化・台頭がめざましく、現在のヨーロッパ主導の図式に変わっている。
マウンテンバイクがこれほど短期間に発展したのにはスキー場を使い、たくさんの観客動員を可能にし、TV等メディアの露出が大きかったことが大きく影響している。世界選に続き世界各地を転戦するワールドカップもドイツの電気メーカー・グルンディックを冠スポンサーにスタートし、ロード中心のヨーロッパ各国を刺激し強化させた功績が大きい。

NORBAが主催する世界選手権。多くの海外ナショナルチームも参加した。

NORBAが主催する世界選手権。多くの海外ナショナルチームも参加した。

UCI(国際自転車競技連合)による第1回の世界選手権大会がアメリカのコロラドで開催された。

UCI(国際自転車競技連合)による第1回の世界選手権大会がアメリカのコロラドで開催された。

日本国内の普及

日本国内でのマウンテンバイクは80年代に入ってまもなく、サンツアーが商品開発のためのテストランや技術チームによる自主的なミーティングを行うなど地道な活動に限られていたが、折から創刊されたBE-PAL(小学館発行)というアウトドアライフ雑誌がレクリエーションの柱の一つとして取り上げたのが多くのファンを獲得するきっかけとなった。創刊編集長だった中村滋氏が日本で最初のマウンテンバイクショップを開いた故・平木康三氏の協力を得て、アウトドアでの遊び道具としてのマウンテンバイクを啓蒙したのだ。
1984年夏、群馬ホワイトバレー・スキー場で創刊記念イベントとして日本最初の本格的なダウンヒルレースとクリテリウム(当時はまだクロスカントリーと呼ばれるにはまだ距離も短くレベルも達していなかったのでこう称されていた)が開催された。アメリカからマウンテンバイク生みの親の一人、トム・リッチーとそのチームを招き、本場のマウンテンバイク・レースをじかに見ることになる。ダウンヒルといってもスキー場のファミリー・ゲレンデ1kmちょっとのコースだったが、トム・リッチーが自らデザイン、製作したモデルを駆使したアメリカチームは本場の走りを見せ、周囲をうならせた。
日本からの参加はサンツアー、シマノ、アラヤ、クワハラの技術研究チーム、マングースのファクトリーチーム、3RENSHO、ワイルドキャットといった当時の先進的なショップチームに、個人参加の愛好者など100人あまりであった。この100人という数字は当時の日本のマウンテンバイク人口そのものであり、その後の飛躍的な増加を見ると隔世の感がある。

国内でも大会が開催されるようになった。第1回BE-PALマウンテンバイクサマーミーティング

国内でも大会が開催されるようになった。第1回BE-PALマウンテンバイクサマーミーティング

目立ったのはオフロードテクニック抜群でもマウンテンバイクに乗るのは初めてという怖いもの知らずのBMX選手で、その後ダウンヒルやデュアルスラローム、最近ではフォークロスなどで活躍する世界トップ選手が同様の出立を見るとスピード系の競技はセンスが要求される一面が伺えた。さらにスキーの全日本クラス選手も参加し、マウンテンバイクの多彩さがすでにこの頃から見られていたのである。
翌年からは毎夏に同様の大会が長野南佐久で開催を続け、1987年にはJMA(日本マウンテンバイク協会)が設立され、88年から全日本選手権の開催で競技は本格的になる。
89年には日本にもマンモスのようなレースを!と岩手県安比高原スキー場で本格的なダウンヒル選手権が行われ、毎年のように海外有名選手が来日するようになった。全日本もシリーズ化され北海道から九州まで全国展開、メディアもニュースポーツとして取り上げた。その間、読売新聞社主催の琵琶湖バレー・ダウンヒル大会のように単発で終わった大会の後、ウエスタンライディング、パナソニックカップ、ファットタイヤシリーズ、リッジランナーカップ、イーグルカップ等々キラ星の如く各種の大会が全国各地で開催されるようになった。

90年UCIによる世界選開催が始まると、日本選手の海外参戦は活発化していく。ワールドカップがスタートするとさらに海外転戦が増え、ポイントを挙げる選手も複数となった。95年からはプロアマ合同で現在の競技連盟が発足するとJCF派遣による世界選参加も以前に比べ飛躍的に充実し、体制が固まっていった。
そして96年、ついにアトランタ・オリンピックでマウンテンバイクは正式種目に採用された。
記念すべき最初のオリンピック・マウンテンバイク選手は男子・三浦恭資、女子・谷川(現・小林)可奈子。その前年、愛知県豊田市郊外で開催された第1回アジア・マウンテンバイク選手権で出場権を得ての出場である。男子50人中25位、女子38人中28位であった。2000年シドニーは男女各1名、2004年アテネ男女各1名出場している。

アトランタ五輪の出場枠をかけたアジア選手権で男女資格獲得の報道(産経新聞1995/10/30)

アトランタ五輪の出場枠をかけたアジア選手権で男女資格獲得の報道(産経新聞1995/10/30)

若い種目と書いたが、こうして経緯を見てみるとすでに誕生から20数年を経て、オリンピックも3大会を数える。次は北京を目指して更なる強化が期待されている。歴史的に見ると初期の日本は先駆者アメリカからの吸収も早く、国際大会への参加も盛んで、トップ選手との交流や技術獲得も進んでおり、かなり期待されていたものだ。しかし、グローバルな視点での取り組みが出来ないでいる間にオーストラリア、フランス、イタリアなどが国を挙げての強化に取り組み大きく水を開けられてしまった。ここ3大会のオリンピックも最初のアトランタよりむしろ後退している感があるように思える。また唯一アジアで無敵を誇った力もここ数年は拮抗してきており、いわんや女子については中国の後塵を拝するに至っている。この辺でもう一度原点に立ち戻るつもりで、世界の勢力図をきちんと見直し、北京までの4年間のプランをきちんと作成すべき時ではなかろうか。
競技連盟10年の節目、アテネの輝かしい銀メダルの喜びを将来にわたりつなげていくためにも、日本人に向いていると評価されているマウンテンバイク競技でのメダル獲得を目指したいと切実に思う。

鷲田紀夫


(この記事は2005年に書かれたものです)

警視庁の自転車安全利用五則です。 ルールを守って正しく乗りましょう!! bicycle_B3jpg用